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「幸せになりたい人」は、まだ読んではいけない記事。

「幸せになりたい。」という人は多い。


私も40年以上「幸せ」を求めて奔走してきました。


学生時代はモテようとして、

背伸びしまくったオシャレをしたり部活(テニス)を頑張ってキャプテンになってみたり、

社会人では、業績を上げて評価を上げてみたりフリーランスになってからも毎年死ぬ気で仕事して、

年収を上げてみたり六本木のネオン街で遊びまくってみたり。


娯楽、恋愛、セックス、仕事の評価、お金、物、肩書き、名誉、等々。


何を得ようが、何をしようが、刹那的に消えゆく満足感


それに虚無感を感じつつもこうなれば幸せになれるんじゃないかと、

あれこれと試しては、これじゃない、もっともっとと幸せになれそうなものを追いかける。


そんなことを続けて、40歳を過ぎたあたりから、その虚無感は次第に増していきます。

何を手にしても、どれだけ評価されても、いつも虚無感が根底に流れていました。


幸せになるために自分を磨き


幸せになるために努力し


幸せになるためにいい人やって


幸せになるために相手に合わせ


幸せになるために我慢し


幸せになるために自分を偽り


幸せという幻想を追いかけては刹那的な幸福感に酔い酔いが覚めてはまた求め


そうして完全に私を見失ってく。


これが当時の僕に起きていたことであり、幸せを求めている人に起きていることです。





クソゲーからの脱出。

そんなことない、私は幸せだ!と言う方もいらっしゃると思います。

それを否定するつもりは一切ありません。存分に楽しんでみるのも悪くありません。

私自身、いかに不満な時間を減らし、いかに「幸せ感」を感じられる時間を増やすか、というのがこの世というゲームのルールだと信じていました。


いかに時間効率よく金を稼ぎいかに効率よく評価されいかに効率よく「幸せ感」を得られるか。

このルールを攻略してやろうと、徹底して生きていましたし、散々やりました。


正直、クソゲーでした。


何かを得ても、一時の「幸せ感」「充実感」のようなものがあれど、

それは刹那的なもので、もう次の日には、別の何かを求めています。一向に「幸せ」には辿り着かない。


そして、次第にその「幸せ感」にすら何も感じなくなっていきました。

ある意味、これが私が自分自身の内側に向き合うきっかけにもなりました。


後に、この世がクソゲーなのではなく、私がクソゲーにしていたことに気が付きます。


「幸せ」という妄想のバケツは満ちるのか。

幸せは「想定」でできています。これがあれば幸せ。こうなれば幸せ。こういう状態が幸せ。

人によって色々あると思いますが、それらは全てあなたの「想定」に過ぎません。


きっと、これがあれば幸せ。

きっと、こうなれば幸せ。

きっと、こういう状態が幸せ。


なのです。


あなたが、きっとこうなれば幸せに違いないと想定しています。

年収がいくらあれば、きっと幸せに違いない。

こういうパートナーがいれば、きっと幸せに違いない。

パートナーがこうしてくれれば、きっと幸せに違いない。

こういうステータスがあれば、きっと幸せに違いない。 

こういう評価をされれば、きっと幸せに違いない。    等々。


そして何かのタイミングでそれを手にした時、確かに感じる気がするのが「幸せ感」です。


もう、お察しの通り、その「幸せ感」は、長くは続きません。3秒、3分、30分、3時間、長くても3日程度じゃないでしょうか。(正直なところ、せいぜい3分くらいだと思っています。)


その時を思い出して「ああ、嬉しかった」と思い出すことはあるかもしれませんが、それは記憶を思い出してニヤついているに過ぎません。


また、「私は◯◯だから幸せなんだ」と思い込むことは可能ですが、そう言い聞かせている私は、もう不足・不幸を、誤魔化しているだけのようにも思います。


自身で作り、自身で握り込んだ、「こうなればきっと幸せに違いない」という想定・妄想。

その妄想のバケツを満たしても、満たされることは一生ありません。


次の瞬間には、無自覚に不足を感じ始め、次のバケツをこしらえて、そのバケツを満たしにいきます。


幸せという「妄想」から自由になった時、ああ、何も必要がなかったのだと、肚からわかります。(何も必要ないんだ!と思い込むことではありません。)

この時、幸不幸を超えたところの静寂の中でただ在ることができます。


意識が外側から内側へ向いた時。

何かがあるから幸せ。幸せに条件が必要な時、外側の現象に幸せがあると思っています。

この時、「幸せ感」を求めてクソゲーを繰り返しやることになります。


幸せになりたいと言いながら

幸せ感を求めて追いかける。


これやってると、死ぬまで餓鬼地獄です。


【餓鬼】


「飢えと渇きに苦しむ者のことです。 食物、また飲物でさえも手に取ると燃えてしまい、 決して満たされることがない。」


幸せという幻想を追いかけ、 妄想のバケツを満たそうとする。

何かを手に入れても、幸せ感はすぐに消え、また新たに求め続ける。


自らの妄想でできた幸せを永遠と追い求める。

得ても得ても腹は膨れることはありません。


幸せをあるようにする私。

想定をあるようにする私。

願望をあるようにする私。


そういう私から自由になった時、そこに本当の意味での「絶望」があります。

それは肯定的な「絶望」です。


絶望のススメ

絶望というと、なんとなく嫌な感覚・イメージを持つ人も多いですが、ここまで読み進めてこられた方にとっては、また違う印象を持つ方も少なくないのではないでしょうか。


望みを断つという意味での「絶望」は、

「望み」がどういう代物かがわかれば悪くないものに思えてきます。


絶望とは「絶つ」「望み」から絶望です。そこには不足感もありません。

必然的に願望もありません。


圧倒的な静寂がそこにはあります。清々しいほどの絶望の先に、

むしろ絶望の先にある道にこそ、光が差し込み迷いなく歩めます。


妄想から自由になり、喜怒哀楽、幸不幸を超えたところにある静寂は

いつもあなたの目の前に広がっています。


見ようとするのではなく、それを見えなくしている「私」を知っていく。


「期待する私」「願望する私」「欲深い私」


そういう私を無くそう、消そうとすればするほどそこに葛藤が起こります。


そういう私をも蔑ろにせずに、否定も、肯定も、判断もせずにその私と向き合ってみる。

「願望をある様にする私」に向き合えたとき、絶望しようとせずに、絶望しています。その清々しいほどの絶望と共に、広がりが起こるかもしれません。


どんな私をも蔑ろにせずに、向き合う。その先に、満たす必要すらない私がいます。

それがあろうがなかろうが、それに囚われない私が顕れます。


外側のあれこれで満たそうとする動きに、キリがない、何か虚しさを感じている方は、

本気で向き合っていきましょう。


最後に、タイトルで「幸せになりたい人はまだ読んではいけない記事」としました。


「幸せ感」を追いかけたいうちは、こんな記事を読まずに、飽きるまで追いかけてみるのも悪くありません。


ただ、それに飽きた方は、「幸せ」という妄想から自由になっていくタイミングなのかもしれません。

この記事を最後まで読めた方はもうその準備が整っているようにも思います。ここまで読めた方は是非「いいね!」で教えてくださいね!


 

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